郷土史を調べる(4)

さて、地図もあったし、ぐねぐね道の正体を調べましょう。

1920年の地図。

1920

斜めに「北八尾街道」という道が走っています。(1)で、「子供には国境みたいだった」と書いた府道のことで、今でも地元では「八尾街道」と呼んでいます。

そして、ぐねぐね道の正体はどうも旧村内の路地であることがわかります。

昔は村といっても家が密集する形で建ち、その回りを耕作する田畑が囲む、という形でした。私が昔住んでいたところは、旧村内だったようです。

そして、明治時代の地図で大蓮から左上の衣摺(きずり、これも難読地名)、柏田(かした)へ続く道が旧・北八尾街道だったのです。

明治時代2万分の1 - コピー

下にある久宝寺とは、戦国時代から歴史のあるお寺で堺のように堀で囲んだ自治都市となっているくらい、力の強いお寺でした。人も集まり、市も立ってました。


郷土史を調べる(3)

明治時代の地図でこのあたりを見てみると。

明治時代2万分の1

田んぼだらけですね。それはわかってたんですけど。

実家があったのは「大蓮」というところです。
今は「おおはす」と呼んでいますが、昭和47年までは「おばつじ」と呼んでいました。難読地名として有名だったところです。

そして、地図の真ん中を上下に貫通しているのは川。河原の巨大さに比べると本流の長瀬川が細いと思うかもしれません。
実は、この川はもっと大きな川だったのです。

大阪の小学生なら必ず習う「大和川の付け替え」です。

今は、大阪平野に出てきた大和川は、そのまま西へ流れて堺のほうで大阪湾へ注ぎますが、この流路は江戸時代に人工的に掘られたもので、それ以前は、柏原市から北西に流れ、淀川に合流していました。このあたりは奈良時代までは海が入りこむほど土地が低く、土砂堆積で平野になったあとも洪水がたびたびあったため、流路を変更したのです。

この巨大な河原は昔の大和川の跡なのです。