郷土史を調べる(終)

大蓮には有名な伝説があります。

奈良に「當麻寺」という古刹があり、これも有名な当麻曼荼羅を本尊としています。

この当麻曼荼羅を一晩で織ったという女性、中将姫がまさに、この大蓮池で採った蓮から作った糸で、この曼荼羅を作ったという伝説です。

中将姫伝説は、能、歌舞伎、浄瑠璃などで上演されていますが、Wikipediaにある要約で話の中身を紹介すると、

今は昔、藤原鎌足の曽孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫と呼ばれるようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。ところが、姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願うのであった。姫が五色の蓮糸を用い、一夜にして織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」である。姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染め上がった。當麻寺の近くの石光寺に残る「染の井」がその井戸である。姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったのであった。

伝説でその蓮糸を洗ったという井戸は、小学校へ行く通学路の途中、文房具屋の軒先にありました。今はもう亡くなってしまいましたが、私が子供のころはまだありました。
そのころは、そんなにすごい話がある井戸とは思ってませんでしたけどね。


郷土史を調べる(6)

さて、大蓮は「おばつじ」と読む難読地名でした。
その由来は地形に由来します。
これまでの説明で、すぐ近くに旧・大和川が流れていたことは何度も説明しました。

川の両側は「後背湿地」という低地になります。湿地には沼や池が出来、蓮の群生があったところから「大蓮地(おおはすじ)」→「おばつじ」となったと言われています。

大蓮には今も「大念寺」という寺がありますが、明治まではその名も「大蓮寺」が存在していました。かなり大きな伽藍に庵もあったとのことです。

ところが、江戸中期の大塩平八郎の乱に加担したものを一時かくまったということで、寺の庵に住んでいた住職が罰せられ、それ以降、大蓮寺は住職のいない寺となりました。
そして、明治維新政府の「住職のいない寺は廃止せよ」という指令によって消滅したのです。

大蓮5

江戸時代の絵図には、この大蓮寺の東側に大蓮池という名の池が描かれています。

また、この近くには白山神社が描かれています。この神社は明治になって大蓮村が近隣7つの村と合併して「長瀬村」となったとき、やはり政府の指令だった「1村1社」(一つの村には1つの神社)によって、新しく作られた「長瀬神社」に合祀され、旧神社は跡形もなくなくなっています。

赤の範囲が現在の大蓮です。

大蓮6

大蓮東、大蓮北、大蓮南の3つからなっています。

茶色で囲ったのは旧村落ですが、村の範囲はもともとこの赤い範囲でした。
村以外はすべて水田だったようです。

なぜ、村の場所がこんなに偏っているのでしょうか。

大蓮村は長い間、淀藩稲葉氏の領地でした。春日局の実家の稲葉氏です(生家は美濃守護代の斉藤氏)。
三代将軍家光の乳母だった春日局は家康の絶大な信頼を受けました。明智光秀の重臣だった斉藤利三の娘という、あまりよくない出自だったにも関わらず、稲葉氏は譜代大名としての扱いを受けています。

年貢の米は旧・大和川にて船便で運ばれ、中之島にある蔵屋敷に運ばれるため、できるだけ川に近いところに村を作ったのではないか、と推測しています。
もちろん、自然堤防の微高地に村を作るのは当然です。

川が付け替えられたあとも、長瀬川となって農業用水や運搬水路として使われました。
私が子供のころはドブ川でしたが、最近はかなりきれいになっています。

ちなみに、隣村の衣摺(きずり)は奈良時代、物部氏の本拠地でした。587年、用明天皇が崩御したあと皇位継承をめぐって蘇我氏と対立し、聖徳太子も出陣したという戦いが起こります。
その戦場がまさにこの衣摺でした。

大蓮や衣摺などのあたりはその後もたびたび戦場となっています。