前回の衆院選で、尼崎から落下傘候補で立候補し、公明党現職を見事撃墜して当選した田中康夫だが、今回は大苦戦しているという。前回は民主からも推薦をもらっており、国政では民主や国民新党と同一会派を組んでいたりと与党として活動してきていた。
3年ちょっとたってこの「新党日本」がどうなったかというと。
田中康夫しかいないのである。
政党は国会議員が衆参あわせて5人以上いないと「政党」として認められないし、政党助成金(税金)ももらえない。ではなぜ、今もこの「新党日本」が政党として認められているかというと、参議院選挙で得票率2%を上回ったからだ。これも「政党要件」の1つとされている。
田中康夫は小泉のしかけた2005年の郵政選挙前に、自民党から離党した国会議員を入れて「新党日本」を作った。5人の壁をクリアするために一時的に国民新党から1人わざわざ移籍されてもらうという技まで使ったのだ(この一人は後に国民新党へ再移籍)
しかし2007年の参院選のときに、他の議員に相談せずに公約を発表したため、「党運営が独善だ」と批判され、2人が離党してしまった。
前回衆院選は参院からの鞍替えで、国土交通大臣までやった公明党の重鎮、冬柴氏を撃破して当選。自動的に参院議員は失職となるが、比例名簿で3位の平山氏が当選することになる(2位はジャーナリストの有田だったが、彼も衆院選に出ていたため辞退した)
ところが、平山氏は個人独裁色がどんどん強くなる新党日本に反発を覚え、政党助成金を党支部や自分に渡すよう要求。田中はこれを拒否。そのため平山は総務省に提出する承諾書や宣誓書を出さなかった。この書類は政党助成金の根拠となることから、日本新党の参議院議員は「いない」こととなり、助成金は田中一人分しか払われないこととなった。前回衆院選に落選していた有田もその後は民主党へ移籍したため、いまこの政党には田中康夫しかいないのである。
政党助成金を私物化しながら、この男はこの3年ちょっとのあいだ、なにをやってくれたのだろうか?
なんにもやっていないに等しい。
前回選挙で撃破した冬柴はその後死去。公明党は今回の選挙を弔い合戦と位置付けている。しかも、前回推薦してくれた民主は対立候補を擁立しており、国会議員としての田中はもはや風前のともしびだ。はやくこのような男は国会からいなくなってほしいものである。
もう一人の平山も問題児だ。もともと新橋の居酒屋を経営していたが鳩山と知り合ったことにより鳩山と共同プロデュース居酒屋を開店。一時は話題になった。その後、田中の政策集団に入り、参院選の比例代表名簿に名前が載っただけである。
繰り上げ当選後は、天皇陛下を携帯で撮影した疑惑があったり、ゴルフ仲間である横峯議員の自宅住所によく似た住所を、地方住所として国会に届け出て、羽田-宮崎間の航空券を受け取ったことが国会で指摘された。ゴルフのために行ったという疑惑まである。
その後、ムネヲの新党大地に、ゴルフ仲間の横峯と移籍している。
まあ、来年夏の参院選で改選時期を迎えるから、落選してくれることを願う。
大幅に人員が少なくなった店では新たに10人のバイトを採用し、その教育係を僕に委任した。そして、彼らが店に出られるようになると、「第3代のチーフになるように」という命を受ける。まさに政権交代。このうらには僕と懇意にしていた社員マネージャー後藤が、店の全権を握ることになったことも影響しているだろう。
僕はバイトの人事権と勤務シフトの設定権を掌握したが、以前の同志社グループによる「恐怖政治」の余韻が生々しかったので、一人皇帝のようにその権限を使うことにためらいを感じた。そこで後藤と相談し、京都外大の西村、大谷大の風間の3人+後藤で合議しバイトを管理していくことにした。トロイカ体制である。
しかし、僕は勤務シフト設定権を持っている。そこで、女性バイト陣から、なぜだかよく声を懸けられるようになってしまった。僕が基本的に女性に不信感をもっているのはこの体験からである。
僕自身ではなく、僕のもっている権限に目がいって、僕に接近してきたのだ。もともと仲のよかった女の子たちとはよくデートはしていたが(恋人とは春先に別れていた)、以前、同志社グループが主導権を握っていたときには彼らに取り入っていた女性たちまでがこちらにしっぽをふるようになったのだ。
僕はまだ純情だったので、その変わり身に困惑し、悲しみを覚え、最後には怒りに変わったのだが(今だったら、全員食ってやる!)、同志社グループの権限乱用を身をもって知っていたので、なるだけ公平にするようにシフトを組むようした。それでないと、僕自身を貶めてしまうように思ったのだ。
3回生の秋、再び10人の新人を採用したのだが、その中に高校1年生の女の子、香山がいた。
僕は彼女のことが気に入った。気に入ったからといって、シフトの優遇するようなことはしなかったのだが、社員マネージャーで僕と懇意だった男、後藤も彼女のことを気に入ってしまった。今まで4人でやってきた運営陣がまたしても女性一人の存在で動揺することになる。
1か月の攻防で僕は敗北した。香山は後藤のものになった。
しかし、このことで僕が仕事に影響を与えたことはないし、後藤と仲が悪化したわけでもない。
トロイカ体制も終焉のときを迎える。
しかし、そのきっかけはまたしても女性だった。香山と同時に採用された中に、中山という高校2年生の女の子がいたのだが、僕が香山に振られた頃あたりから、急接近してきたのだ。
彼女は当時人気絶頂期だった中山美穂に似ていたが、スタイルもよかった。自分もそれは自覚していたみたいで、「(服を選ぶにも)胸に合わせると腰がブカブカで、腰に合わせると胸が入らない」などと言って愚痴っていた。確かに見事なくびれだった。(ちなみに香山は南野陽子をややハーフっぽくした感じ)
僕はフリーになってからはバイトの女性陣とお茶程度はしていたが、デートでどこかに行くということまではしていなかった。香山を奪われて落ち込んだ気持ちでは、次へ踏み出せなかった。そんな中で、中山ともなんどか一緒にお茶を飲み、おしゃべりをしていた。前述の愚痴はそのときに聞かされたもの。今考えると、あれは愚痴ではなくて精一杯のアピールだったのではないかと思う。
さて、ある日の仕事の終わり、着替えをしていた控え室の照明がいきなり消えた。控え室の中には僕と中山のふたりきり。そして、彼女は僕に抱きついてきたのだ。
まだ、香山への思いもある。とにかく、階下には後藤がいる。時間を浪費するとなにをしていたのかと思われるので、彼女を説得し、真っ暗な中を手をひいて玄関に出た。
「なんで着替えてるのに消すんですか~」となんにもなかったかのように装い、バイクで帰宅する後藤と別れ、中山を家まで送っていった。中山の家は店から徒歩5分の至近にあったが、夜10時の新京極通りはほとんど人がおらず、女性の独り歩きにはかなり危険なのだ。これまでも閉店作業のあと彼女を送っていくことは何度もあったのだが、自宅マンションの前で中山に抱きつかれ、好きだと泣かれてしまった。でも、僕は「いいよ」と言えなかった。
今よりも遥かに「バカ正直」で純情な私はまだ香山に心が残っているのに、中山を選ぶことをふしだらと思ってしまったのだ。そして、バカ正直にそう伝えてしまった。
翌日、後藤に聞くと、照明を落とすという策は、中山自身が後藤に頼んで行ったことだという。中山は私を攻略するにあたって後藤に相談していたのだ。私はまったく気付いていなかった。後藤も僕と香山を争い、奪った引け目もあり、それを承知したとのこと。
僕はそろそろ自分がこの店でやるべき仕事が終わったのではないかと感じ始めていた。同志社グループが終わりを迎えたきっかけが女性だったのと同様、僕が主導したトロイカ体制も女性によって終わることになる。
僕はもうすぐ4回生になる。その前の春休みに車の普通免許を取っておきたい。教習所に行きたいために、僕は退職を申し出た。後任の第4代チーフには信頼できる西村を推薦した。
かくして、派閥抗争の時代をとおりすぎ、わずか20名ほどに縮小した職場を後任に託して僕は退職した。
その後の話もあるのだが、またそれは後日にでも。
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解説
■西村・風間を選んだのは単に仲がよくて職制上同格だったため。西村とは3回生の夏に沖縄旅行に行き、現地で東京のOLをナンパして(以下省略
■まあ、ほら、旅先ではハメもはずすでしょ。なんたって21歳だもの。
■(今なら全員食ってやる!)の今は、2012年ではなく、当然この文章のオリジナルが書かれた1998年のこと。
■マネージャー・後藤は中卒で元暴走族の16歳。つまり、香山と同い年だった。
■後藤とは香山の件があったあとも良好な仲だった。そうしなければならないと思っていた。後藤もいろいろ苦労したのか族上がりにしては常識があり礼節もあった。
■香山はお嬢様高校で有名な同志社女子校、中山は進学校の府立堀川高校に通っていた。
■中山の父親は料亭を営んでおり、夜遅くまで親は家を開けていた。
■最後の「その後の話もあるのだが、またそれは後日にでも」というのがどの話を指すのか、実は覚えていない(笑)