1988-1989・上

前回の「アイスクリーム店」の話の後日談。
「そのあとの話」が何を指していたのか覚えていないので、とりあえず「この話ではないか」というのを書いてみた。もう忘れそうになっているから。

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僕はアイスクリーム店を辞めて、運転免許を取りに京都市内の教習所に通った。春休みをいっぱいに使って無事取得。当時はAT限定免許はないので、ミッション車の免許である。

さて、僕は3回生のときにかなり真面目に学校に通ったおかげで、4回生は週に1コマ、卒論指導ゼミに出るだけで済んだ。卒業論文は3月から取りかかっていたが、就職活動も始めなければならなかった。
そういえば今と違って「しゅーかつ」などと省略はしていなかった。あの言い方はいつごろからだろう。一応、採用活動解禁日は「9月1日」となっていたが、そんなことはおかまいなしに企業は採用活動を春から初めていた。

世はバブル絶頂期を迎えつつあった。
東証の株価は1988年はじめに2万円を超えていたが、年末には3万円になろうとしていた。
初任給は毎年1万円ずつ上がっている、そんな時代だ。
4大卒は完全な学生の売り手市場で、一人でいくつもの内定を手にしていた者も多かった。僕のような地方の学生は複数の面接を東京で仕込んで、交通費をせしめて儲けるやつまでいた。各企業が往復の交通費を出してくれるのだが、数社の面接があれば、1社以外からもらった交通費はそのまま懐に入れられる。

僕はマスコミ志望だったので、東京・大阪のテレビ・ラジオ局、主要な出版社に的を絞っていた。そのため「面接慣れのため」に受けた製薬会社から内定をもらっていたが、活動を続けていた。しかし、対象となる企業はある意味特殊で数も少ないのでメーカーよりも少なくなる。大学も週に1度だけでいい。となると、時間が空いてしまう。バイト代で生活費をある程度ねん出していたこともあり、なにかバイトをしようと考えた。

もちろん、あのアイスクリーム店への復帰は考えない。

そして選んだのは。

僕はこの年の春に四条河原町の交差点に開店した大手アイスクリーム店のバイトとなったのだ。いわば、前職のライバル店への転職。面接はすぐに通過し、3月から8月まで週に3日ほど仕事をしていた。

前に勤めていたアイスクリーム店の後藤が偵察に来て、カウンターの内側にいる僕を見つけ苦笑していた。前もって電話では話していたのだが、実際に見にくるとは思わなかった。まあ、この僕の選択については彼も仕方がないと思っていたので、特になにも言わなかった。

ちなみにこの1年後のことになるが、中山は高校を卒業したあと、なんと、舞妓になったという。父親が料亭を営んでいたから、その絡みもあるかもしれない。

免許を取り、卒論も順調、あとは就職だけ。

僕は関西に就職することを考えてはいたが、マスコミ志望という性質上、上京しなければならないことも覚悟していた。

そんな中で、新しいバイト先で恋人が出来てしまった。19歳の彼女は美大に通っていた。ハーフっぽい顔立ちとスタイルのよさで人気者。バイト仲間からのニックネームは「マド」。

「窓」ではなく、これは「マドンナ」という意味だ。女性陣からもそう呼ばれていたので、文字通り店の「マドンナ」だった。その彼女を、新参者の僕が射止めてしまった。

僕は彼女と相談して二人の仲を秘匿することにした。いくら年齢が比較的上だといっても、この店でのバイト歴はまだ短い。ポッと出の男にさらわれたとなると男性陣からの反発もあるかもしれない。彼女には彼女で隠しておきたい理由があったのだが、それについては長くなるので省略。

いろんなことがあったが彼女とは半年ほどで別れてしまった。彼女とのことについては小説がかけるくらいさまざまなことがあったので省略する。そして、その頃に僕は今勤めている会社の内定を手にしていた。

半年後には上京することが決まったのだ。

別れを積極的に受け入れたのはそのことも影響している。
そして、僕はパイトを辞めた。

上京することがわかっているから、恋人を作ろうとは思わなかった。
仲がよかった女の子たちと飲みに行ったり、お茶したりはしていたけれど。
まあ、あれは「デートごっこ」とでもいうべきものだろう。

「来年の3月には東京に行くから、それまでに一度あそぼ」というと、声をかけた女の子全員がデートをOKしてくれた。中には彼氏がいる子まで。まあ、デートすると言ったって、キスしたり、それ以上のことをするわけではない。そのあたりはまだ僕は堅物だった。

1989年の2月24日、僕は上京した。日付まで覚えているのは昭和天皇の大葬の礼の日だったからだ。車の規制のせいで、引っ越しトラックの到着が大幅に遅れ、家具もなにもないガランとした空き部屋の中で、コートにくるまってひたすら待っていたことを覚えている。当日は小雨が降っていた。

入社日は4月1日だったのでまる一月は東京の街に慣れるため、地図を片手に歩き回った。そのあたりのことは以前の「上京物語」という日記で書いている。

(つづく)

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解説
■車の教習所では第2段階を1回落とし、友人から「そこで落とすなんて信じられない」と言われたが、仮免、本試験とも一発で通った。仮免の教習コースは嵐山方面。なだらかな長い坂道を下る時、クラッチを切ったまま降りてしまい教官に「俺を殺す気か」と言われた(笑)
■大手アイスクリーム店とはハーゲンダッツ。ちなみにその前に勤めていたのはホブソンズ。この2店はすでに閉店している。
■当時の内定解禁は10月1日だったが、この日各企業は内定を出した学生を逃がさないように温泉旅行に連れていったりしていた。映画「就職戦線異常なし」にはこの頃の就職活動の模様がよく表現されている。
■結局、テレビ関係は全滅、講談社は2次を突破したが最終でアウト。そして今の会社になんとか入れた。金融とかメーカーで活動していたら容易に内定は出ただろうけど、マスコミ関連は募集人員がもともと極小なので、当時はかなり焦っていた。
学校の就職部主導で「マスコミ希望の学生」を集めた飲み会や情報網の構築、セミナーもやっていたけれど、結局マスコミ関係に就職できずに商社や航空会社に入った者も多かった。
■卒論のテーマは「李白」。
■舞妓は芸子見習いといった感じの立場。