僕が反共になった理由。

これも昔に書いた日記。2000年だから12年前。
これも少し加筆して再掲してみる。

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僕の通っていた高校は今から考えると変わっていた。

「共産党の(勢力が)強い学校」と聞いていたが、府立高校なんだから限度というものがあるのだろうと思ってはいたが、やはり変な学校だった。
生徒会、ではなくて自治会。校歌、がなくて自治会歌。修学旅行もない。その代わりにクラス単位での小旅行があるが、観光旅行ではなくて、自分たちでなんらかの目的を討議して自分たちですべて仕切る。
卒業式も「3年生を送る会」。そういえば、高校3年間、日の丸や君が代を見たり聞いたりしなかった。

すべて生徒に自主性にゆだねる。それが民主的。民主的か。勘違いを起こす言葉だ。

3年生も終わりころ。僕は「卒業委員」なるものに任命された。変な言葉だがそう呼ばれていたので「卒業委員」ということにしておいてくれ。で、なにをするかというと、教師や在校生の委員とともに「送る会」の運営方法などを話し合うための「卒業委員会」に出る係で、クラスから一人選ばれた。
なぜ僕が選ばれたかというと、そのとき進路が決まっていたのが僕だけだったからだ。

僕は3年生の9月の段階で校長推薦を受けることが決まり、進路が確定した。大学のほうから「この学部のこの学科に一人、おたくの高校から生徒を推薦して」という形で高校に話がくる。大阪では「指定校推薦」とも言う。なので、高校の中で推薦を受けられることが決まると合格したも同然となるのだ。入試は筆記試験はなく、面接だけ。

僕は10月からバイトも始めていたし、暇といえば暇だった。第一、クラスメートはこれから入試なのだ。ちなみに僕は共通一次試験の最後のほうの世代だ。

開催された「卒業委員会」で事件は起こった。

式次第は前年のものを踏襲することになった。とくに変更することもない。
ところが、教師側からある問題が提起された。

卒業式における服装のことだった。

それまでは在校生は制服(ちなみに母校は制服はあるけれど私服もOKだった)、卒業生は男子は制服かスーツ、女子の中では希望するものは振り袖やチョゴリを着ていた。母校には在日朝鮮人の生徒も多かった。
その中で振り袖を禁止したいという話が出たのだ。そういう噂はすでに広まっていた。内々に僕のところに来て「なんとか振り袖が着られるように話してほしい」と言ってくる女子もいた。

教師が言うには、振り袖は一度だけの機会にしては値段が高すぎるから、着たくても着れない人も出てくるということだった。でも、レンタルという手もあるではないか、と僕は反論した。さらに、2年後には成人式もある。それを見越して仕立てる人もいる。学校側が規制すべきものじゃないと言った。

思えば、教師に逆らったのはこのときが最初で最後だった。
なにか不平や不満を教師に言ったとき、「成績が悪いくせに何言ってる」と言われるのがいやで、弱みを見せたくないから勉強して学年で5本指に入るほどになっていた。今から考えるとかなりバカな動機だが、そんなつまらないことで自分の意見を却下されることはいやだった。幸い、それまでの間は教師といさかいを起こすようなことはなかった。きっと、僕のことを成績がよくて、反抗もしない「都合のいい、扱いやすい生徒」とでも思っていたのだろう。

しかし、筋が通らないものは納得できない。僕はクラスを代表して来ているのだ。

さらに聞いてみると、チョゴリはOKするという。僕は冷静に言った。

「チョゴリは朝鮮の人の民族衣装です。僕はそれには反対しません。でも、振り袖は日本人の民族衣装です。祝いの席で、どうして日本人だけ民族衣装が着られないのですか? そんな筋の通らないことがありますか?」

教師は黙った。完璧に論破した形となった。

しかし、その意見はファシストまがいの一言でうち破られた。

「だめなもんはダメなんや!」

僕はあっけに取られた。なにが「民主」だ。俺たちの卒業式なのにどうして介入するのだ。所詮、アカのいう「民主」は自分たちの手の中でおさまるだけの「民主」なんだ。

僕は初めて教師の前で感情を露わにした。机をドンとたたいて、

「そうですか、ようくわかりました。クラスに帰ってこのいきさつを伝えます」

このアカ野郎、という言葉をかろうじて飲み込んだ。そして、僕はその席を立った。
何か言ってきたら、「それが民主的ってもんでしょう?」というつもりだった。

結局、民主的民主的と言っても結局その制度を運用する人間によって、いかようにも変えられるということなんだ。 この日の話は、出席していた各クラスの卒業委員がそれぞれのクラスに伝えたらしい。

3年10組の船橋君が、こう言ってくれたんやけど、社会科教師の××がこんなこと言ってなって具合に。

翌日、僕のところにまったく面識のない、別のクラスの女の子が尋ねてきて、「ありがとうな、でもあまり無理せんでええよ」と言ってくれた。

実はうちのクラスには学年を仕切ってる番長(おとなしい学校だったけれど、そういうヤツもいたのだ)がいたのだけれど、その話を聞いて「おまえ、ただのガリ勉かと思ってたけど、男やのう。でも、まあそれだけ言うたらもうええやんけ。な。あまり無理すんな。俺はアホやから大学にはいかれへんけど、おまえ、もう推薦決まってるんやから、あまりゴタゴタせんほうがええわ。(社会科教師の)××がおまえになんかちょっかいかけてきたら、俺らがしばいたるから安心せえ」。

結局は振り袖は禁止、チョゴリはOKとなった。卒業式で色とりどりのチョゴリを見ながら僕は複雑な気分だった。(念のため。別に僕は在日朝鮮人に偏見を持ってるわけじゃありません。なんせ、僕の実家の隣は在日の人が住んでいたし、それこそ小学生のころから彼らと一緒に遊んでいたからね)
ただ、この「逆差別」に我慢ならなかっただけだったのだ。

卒業式をボイコットしようか、なんていう意見も出たけれど、大学入試が始まるにつれてそういう意見は薄れていった。

卒業式が終わったあと、担任が僕を呼んだ。3年間ずっと担任だった化学の教師だ。
僕の見るところでは、この人はアカではないと思っていた。

「船橋、お前が言うたことは正しい。まったく正しい。でもな、周りの状況で正しいことが通らんこともあるんや。お前はそれでええ。だから、そんな不機嫌な顔をすんな。な?」

僕はそのとき、慰められたことよりも、「ああ、この人も学校で苦労してるんだな」と思った。なんで、そんなに醒めて考えられたのか不思議だったのだけれど。

このこと以来、僕はいわゆる革新勢力のいう「民主」という言葉を信じないようになった。共産党なんて大嫌いだ。ヤツらも結局、権力を握るとただの亡者になるんだ。

僕が反共になったのはこのような理由による。